⒉せっかくなので例示してみた

こんにちは。010です。

夜遅くに記事を書いていたら眠れなくなってしまったので、私の視野における具体的事実を紹介したいと思います。確からしさは保証できません※※本質論理構造の紹介とは異なる


○人間は多く触れた出来事に保守的な動物であることの一面的若干の補強。本質的思考と論理的思考主体。

人間の考えについて考えるときしばしば威力を発揮してくる前提的事実があります。人間の考えは認識が元になっていることです。ここから展開します。

人間のフレームワークは生まれ持った脳の物理的特性(特殊的機能は物理的特性に由来するためこの表現で大きな問題はない。意味もないが)、そののちの広義の環境(外的要因)が総合的に影響することで作り上げられることは自明でしょう。

つまり、人間は認識のフレームワークを経験を糧に後天的に完成してそれを基に価値判断を下すと。

ならば“人間が多く触れたある出来事”は出来事の由来する(この場合は細分化された)分野のフレームワークはその“ある出来事”によって作られている。という事実が成り立つ時がある。

このとき、革新的な出来事が人間の頭に入ってきた際、型が違うためフレームワークがうまく反応できず、違和感を感じるのだろう。
そしてただの違和感ということを意識していないと、ある革新的な出来事に対する拒否感と精神が混同し、(そもそも分ける必要性があるのかと言われるか?)結果的に本当に嫌ってしまうのだろうと。

ここから何が言えるか?

全ては不慣れが要因だということだ。

二次元の女の子が目が大きくて気持ち悪いという発言も(たとえば大きなきっかけでこの障害を乗り越えたオタクはその過程で目のサイズに慣れてしまっていてそんなことは思わない)

一部のオタクが女子のネイルや強烈な化粧・ファッションに魅力を感じないのも(あまりその方面に触れていないので、主にすっぴんで型どられた美貌分野のフレームワークで“詰まり”が起きる)

一部の老人が昔は良かった、昔の〇〇は良かったと言うのも(〇〇の分野におけるフレームワークが出来てしまっている)

多くの日本人がカエルを犬を食べられないのも
一昔前は今より携帯ゲーム機に否定的な大人がより多いのも


これらの事象を個個具体的にアナログな理由を当てはめる思考は存在するが、(昔は良かったの例で、補正がかかって自分達の記憶の少年時代と異なっていて認められない、と説明する。表面的だ)私はこちらの根本的本質的(構造性は微妙)な捉え方を好む。

また、“補正がかかって”を“フレームワークが出来上がってしまって”などに読みかえられるか?

以上。駆け出し者の落書きのような拙い文章をここまで読んでいただきありがとうございました。

ではまた